ブログを書かせてもらうのは久しぶりでございます、鉄道知識を教えてもらいたいアイドルれんてつの総裁レッドアローこと、TOBBY LABO代表取締役小安飛子(実は藤田)です。
2018年4月1日より、れんてつの大阪サテライトを作るため、小安は大阪に住みます。という事になってますが、主人の転勤が大阪になりまして、ここで一念発起ついていこう、となりました。実際の私の仕事はPCがあればOKだし、インターネット繋がっていればどこでも大丈夫。そして現場には大変優秀なスタッフが集まったから問題ない。社長なんか現場にいない方がきっといいに違いない。

大阪で販路拡大だーーー!なんて思っても見たり…。

そして大阪と東京はそんなに遠くない。
だから大丈夫。弊社は小さい会社だけど、売り上げの管理等はしっかりしている(自画自賛)ので数字を把握するのは問題ない。
IT化社会なんだから、現地にいなくてもできるはずではないか。
私が証明よ。

というわけで。

この機会に自分を振り返ってみることにしました。
長いです。気がついたら今年で37歳なので、思ってたより長くなりました。

まず私は、旧姓のまま仕事をしておりますが、登記上は藤田です。
そして飛子は「たかこ」と読みます。関係ないけどウチの妹は野子と書いて「なおこ」と読みます。母は幾子で父は博一です。

昭和56年5月3日生まれ、板橋育ち、中学から練馬、都立大泉高校というのんびりしたところを卒業し、日本女子大学という女ばかりの大学では学園祭実行委員を張りきってやり、3年生で見事実行委員長をやらせていただき、そうしたら学業がガタガタで英文科をじり貧で卒業し、その後、星より明るくスリーエフ本社に就職するはずが横浜で一人暮らしにびびって辞退し、フリータをしてあれこれバイトをしてたうちに、見かねたお姉さまに就職先を紹介されて帽子メーカーに営業として入ります。そこから1年くらいして実家を出ています。たぶん24歳くらいの時です。

■帽子メーカーの営業時代

帽子メーカーで2年くらいたったとき、私はそこそこ売上を上げられるようになっていて、正直調子に乗っていました。大変鼻につくやなやつでしたね。会社で飲み会があってカラオケ歌えって先輩たちに言われても「歌いません」の一点張りだし、会議では直営店店長とけんかになったときに「直営店のようなダサい売上しかないところが主張してきても意見が通るわけないじゃん」とかっていうほんとに嫌な奴でしたね。上司に対しても、いつも自信満々に自己主張ばっかしてたし。おかげで自分担当の一番大口取引先で針が出た(ミシンの折れ針が製品に混入するというあり得ない事態)時も上司は一切助けてくれなかったのを覚えてます。
「部長、針が出てしまいました…どうしたらいいでしょうか…」
「知らない(フンッ)」
ていう恐ろしいシーンを未だに思い出せる…。
冷静に考えたらこれは上司として会社がつぶれるかもしれないくらいの緊急事態なのに、私情でこうやっていうのもどうかと思うんですけどね。
でもそれくらい私が嫌な奴だった。当時の私の2倍生きている男性を怒らせるくらいの鼻につく高慢ちきな女だったわけです。周りも「ざまあw」と確実に思っていたでしょう。その時、千駄ヶ谷の駅で電車を待っている時にこのままどこかへ逃げてしまいたい、と思ったのを覚えてます。

そして、どうにか針事件は収まり、また取引も再開して順調かとおもいきや、1年後簡単に言うとクビになりました。この辺微妙な話で、退職者を募ったんですよ。その条件が「これから働き続けるなら給料半額、今やめるなら有休消化してもらって大丈夫」みたいな内容でした。
渋谷のど真ん中にオフィスに移転したことにより経営ががたがたがたーって傾いたんですね、加えて海外工場で工場長が現金持ち逃げとか重なって大変な時期だったんでしょう…。普通は役員さんの給料から手を付けるべきなのに末端にだけそういうしわ寄せがきてしまうという怖いところでした。
しかもこの続きがあって、どうやら役員お気に入りの子たちは後で電話が来て「あの話、君には適用しないから(給料半額にしたりしないから)残ってね」といわれたそうで、私ともうひとり企画の子には連絡が来なかったという辛い思い出があります。

これは人生の中でかなりのトラウマになる事件で、なかなか切り替えが行かず思い出しては悔し泣きをしていました。
そしてその会社がそこから約1年後に倒産したというのを聞いた時敵が勝手にいなくなってしまったというなんとも言えない気持ちになったのを覚えています。

今考えればその社長は実はとっても優しい人だったんですがどうも優柔不断で人の意見にかなり左右されてしまうところがいけなかったんだな、という事です。周りに悪い人やずるがしこい人間が集まってきてしまう。でも社長はきっと孤独なので話を聞いてくれる人にすがってしまうのである。あと、断れない。流されちゃったのかな…その時に痛い社員がいたもんな。

■バッグメーカー~フリーター時代 約1年くらい

帽子メーカーを辞めた直後にはもともと担当していた取引先(バッグメーカー)に入りました。
この時も浅はかな選択をしましたね…転職活動で大手アパレルメーカー(しかも帽子メーカー時代に針を出して大変だったところ)の生産管理部門の最終面接が1週間後に控えているという状態だったのに、「すぐうちに来て働きなよ!」という甘い言葉につられて「じゃあ、そうしま~っす」といって入るも、あまりの空気の違い、例えば強烈な本社礼讃(東京は支店だったんですね)、セクハラ(飲み会後ホテル行こうといわれる、というとなんか私が調子乗った女みたいに見えるかもだけどアパレル業界のおっさんは軽くそういう事を平気でする人が多いようで、それがまた憧れだったみたいですね。ちょい悪おやじになりたいおやじがいっぱいいる世界だった。そして私はこのころまだなんというかそういう事に潔癖すぎたて笑ってかわせない人間だった)があり、強烈な胃腸炎になるようになって3ヶ月で退社。

自分の選択が甘かったことへの怒りと悲しさで凹んでいました。ここでついに失業保険をもらう事に。それでも3ヶ月分くらいしか出ない。就活してもしてもうまくいかない状態が続き、アパレル業界は一気にあきらめまして、またフリーターになります。この時、私はようやく自分が何にもできない人間だったという事に気が付くのです。
いろんなアルバイトしたなあ…。喫茶店やら、居酒屋やら…。不思議と一回人生失敗すると、人の話がようやく聞けるようになったと思います。(まだまだだよって言われるとおもいますけどね)

■広告代理店という名の制作会社時代 約半年くらい

フリーターをずっとやっているとうちの母上と父上が非常に心配するので就活をまた始めることにしました。
もうアパレルはいいや、と思ってここで思い切ってカジを切り、テレビとか広告とかそういう世界に行きたい!といろいろ受け始めます。ついに受かったのは…残業がない日は無い、制作会社、主にイベント関連、でした。
ここ、実は半年くらいしかいないんだ。でも実質毎日出勤みたいなものだったから内容は濃い。
あまりに過酷すぎて…。なにより博報堂さんの下請け会社さんが「4649!」って言ったら夜の21時の依頼でも翌日の10時までには企画書やらをそろえてないと怒られるという世界だったわけです。
※担当さんはけして調整してくれない。
辞めるきっかけになったのは頭痛がひどくてしょうがないのに、書類の修正指示待ちをしなくてはいけなくて15時に戻りが来るはずが、待てど暮らせど来ず、電話をかけても担当の人が
「すぐ送るんで」って言って、送ってこず、そして電話して「すぐ送るんで」って送ってこずの繰り返しがあり、21時に頭痛による吐き気に襲われ無理だと思って帰ってしまったんですね。
そしたら自宅につく前くらいに「送ったのですぐ修正して戻してください」と電話がかかってきた。
「もう家に着くから無理です明日やります」
といったらすごく怒られた。

その後社長からも電話がかかってきて「意味が分からない何をやっているんだ」といわれる。
当時の女社長は「そういう世界なんだから我慢しなさい、これが当たり前なんだ」というタイプだったなあ。というか本人がもう疑問にすら思っていなかったわけだ。しかしすごく仕事のできる人だったけど、スタッフへの配慮が皆無であった。仕事はほんとにできた。憧れでもあった。現場で罵られることも多々あったけどそれでもかっこいいなと思っていた。先輩も面倒見が良くて大変助けてもらってた。

が、自分の方がかわいかったので
「ごめんなさい、私にはもう無理です・・・辞めます・・・」
といって退職。退職者が大変多い職場だったので、あっけらかんとした感じでした。

その後またフリーターに戻る。

■フリーター後、ITな制作会社との出会い

それからまたバイト生活が始まる。制作会社時代のめんどうみの良い先輩が何かと気にかけてくれていて、ある日「仕事を手伝ってくれって人がいるよ」といって紹介されたことから「フリーランス」になったわけです。そこの会社でイラストレーターやフォトショップの使い方、WEBの更新の仕方等を色々教えてもらいました。
まためんどうみの良い先輩が制作会社時代の取引先とかをつなげてくれたりして、イベント制作のお仕事を手伝ったり、ブッキングの仕事を手伝ったり・・・とやっているうちに、気がついたら一番長く続けている仕事になったわけです。

そしてその後瓜田さんという人物のお仕事のお手伝いをさせていただくきっかけがあって、なんだか今に至るという感じなんですがこれが結構しんどく長くなるのでこの辺で…それでは皆様、良きライフを。
人生色々あって楽しいな。